8ミリ通信No.7 8ミリの独り言
~家族とともに~
 二十一世紀が目前である。そして私は六十八才を迎えた。母なるイーストマン・コダックは私を16ミリの弟分として生んでくれた。一九三二年に生をうけ、わずか3才にしてはるばる太平洋を越えて日本へやって来た。その頃の日本はとても平和で、先に来た兄さんやフランス生まれのパテーさんが活躍していた。小さな私など受け入れられるのかと心配したが、それもとりこし苦労で、たくさんの家族から歓迎された。

 日本へ来た頃の私は、白黒のモノクローム服の”着たきり雀”であったのですが、2年後の一九三七年には本国アメリカからコダクロームという総天然色の洋服を贈ってもらい、そのファッショナブルさがいっそう家庭へ浸透して行くはずであったのですが・・・

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 みずから戦争の引き金を引いた日本は私にかまっているどころではなくなったのです。昭和十二年、中国大陸に端を発した戦争はやがて太平洋戦争へと拡大し、16ミリの兄さんなどはその記録の最前線に追いやられて行ったのです。たいへん悲しい出来事でした。そして私は、長く沈黙の時を過ごしました。
 日本の敗戦から十年が経ち、人々はようやく私のことを思い出し、戦火を生き延びて来たカメラに加え、新しいカメラの生産が始まりました。昭和三〇年代後半はまさにダブル全盛の時でした。カラーもモノクロもいっぱい撮られ、家族の明るい笑顔が戻って来ました。
 昭和四〇年、またひとつ私にとって大きな出来事がありました。今でいうシェイプアップです。大き過ぎたパーフォレーションは随分とスリムになり、その分画像面積が広くとれ、その上、カートリッジ入りとなって扱いやすく成長したのです。アメリカではスーパー8、日本では異母兄弟のシングル8が誕生し、「マガジン、ポン。私にも写せます」は一世を風靡したのです。高度経済成長の象徴となったEXPO'70日本万国博は私の活躍する大舞台となりました。
 まさに私の人生は家族とともにあり、子どもたちの成長とともに育ってきたのです。そしてこれからも老いてますます盛んなよう、百歳を目指して二十一世紀を生き抜こうと考えているのです。
                            8ミリ通信No.7 page2
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2009-04-15 15:45 | 8ミリ通信No.7 | Comment(0) | Trackback(0)
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